防災士厳選の防災グッズ39点セット【ディフェンドフューチャー】
今日は東日本大震災から15年。
当時の記憶と、その後の自分の歩みについて書いてみたいと思います。
アイキャッチ画像は、岩手県田老町の鮭・あわびまつり(2025年11月)の様子です。
揺れた日、雪の夜、刻んだ穴
震災当時の2011年3月11日、私は地元の岩手にいました。大学3年生、春休みの時期でした。
弓道部の部活動の休憩時間。
数名の部員とキャンパス内を移動していました。
弓道部では定期的に会報を作っており、その日は印刷の日でした。
私はレクリエーション委員として、原稿を刷る担当のメンバーとともに、道場から印刷機のある学内施設へ向かっていました。
その途中で、地面が揺れました。
最初は揺れにあまり気づきませんでしたが、
図書館前の駐車場に停まっていた車が、ゆっさゆっさと大きく横揺れして、実感しました。
しばらくすると、図書館から多くの人が外へ出てきました。
ただ事ではないと感じ、私たちはすぐに道場へ引き返しました。
まずは自主練習していた部員たちの安否確認。
そして道場建屋の安全確認、的場など設備の破損確認を行いました。
幸い、部員は全員無事でした。
しかし停電していました。
道場のテレビはつきません。
誰かがスマートフォンのワンセグをつなぎ、皆で寄ってたかってニュースを見ました。
三陸沖に津波。
10メートル予報。
いや、20メートル。
いや、30メートル。
内陸の人間としては、何が起きてるか理解が追いつきませんでした。
水位が上がった橋の上を走る車。
徐々に集合体になっていく流れる瓦礫。
港町を飲み込む、茶色い泥水。
どうやら、この県内で大変なことが起きている。
それでも細部の映像は分からず、実感が湧きませんでした。
そして、電車が停電して家に帰れない自分の心配をしました。
その日は雪でした。
大学の最寄りに住んでいた部員の友人宅に泊めてもらうことになりました。
翌日、父が車で迎えに来てくれて帰宅することができました。
幸い、自宅には自家発電機がありました。
たまたま家業で取り組んでいた事業で使用していたものです。
そのおかげで、家の中では暖を取ることができました。
冷蔵庫は停電したままにし、
とりあえず冷凍食品が解凍されたものから家族で食べました。
夜は家族全員で一か所に集まり、雑魚寝をしました。
頭のそばには自転車のヘルメットを置きました。
余震が来たら、すぐにかぶれるようにするために。
数日して電気が、電車が復旧しました。
大学周辺で一人暮らしをしている部員たちは、
食料に困っているということをLINEのやり取りで分かったので、
私は食料を担いで、電車で大学の方へ向かいました。
そしてそのついでに、何となく、駅ナカで営業を再開していた雑貨屋に入りました。
そこで私はピアッサーを買いました。
そして、その晩、左耳に穴をあけました。
特に、あける予定はありませんでした。
でも、あけました。
やるせない気持ちだったのか、
この出来事をどこかに刻みたかったのかもしれません。
おしゃれのために両耳にあければよかったのに、
左耳だけでやめておきました。
理由は自分でもよくわかりません。
被災地出身としての葛藤 ― 建設業界で考え続けたこと
これが震災の真っただ中にあった、私の個人的な記憶です。
結構、鮮明に覚えているものだなと思いました。
あれから私は大学でやりたい研究に没頭しました。
「(生真面目だと思われても)周りのことは気にせず、あなたは研究しなさい。」
と隣の研究室の1つ上の先輩に言われて、ハッとしてからでした。
就活の時期、
被災地出身者なのだから、地元の復興のために働くべきではないか。
そんな思いが、どこかにありました。
一方で、地元に残りたいという気持ちが強かったわけではなく、
むしろ、外に出たいという気持ちの方が自然に湧いていたように思います。
自分の薄情さのようなものを感じていました。
それでも、大学で取り組んでいた研究の流れから、
私は水環境に関わる仕事がしたいと思っていました。
水は生活の基盤です。
そして災害のとき、その重要性が一気に表面に出てきます。
断水すれば、生死に直結します。
衛生環境が崩れれば、健康にも影響が出ます。
そうした背景から、私は水インフラに関わる建設コンサルタント会社に就職しました。
公共インフラに関わる仕事柄ということもあり、
常に防災の意識が自分の中に根付いていました。
そして、仕事でモチベーションが下がったとき、
仕事に対して誠実でいられていないと感じたときに、
自省の意味で、あの震災の映像を観返すことがありました。
テレビでは流せない生々しい映像を探しました。
自分が関わっているインフラの仕事が、
本来どれほど重い意味を持っているのかを思い出させられました。
人の生活を守るはずのインフラそのもので、人の命が奪われてはならない。
その気持ちを忘れないように。
それでも結局、私は建設業界を辞めてしまいました。
今思えば、自分に期待しすぎて自滅した気がします。
そして、「何はともあれ身体が資本だ」と思う機会が増えてきたのでした。
いつでもどこでも心身を救える仕事 ― あマ指師という新しい道
そして今、私は
あん摩マッサージ指圧師という道を歩んでいます。
手技療法は道具を必要としません。
自分の手があれば、誰かの役に立てる。
災害が起きたとき、医療資源は不足します。
設備も、道具も、電気も足りなくなります。
被災地の闘いは、災害直後の救急事態だけではなく、
その後の長丁場にわたる復興期間に、心くじけずやれるかどうかでもあります。
災害関連死のリスクが彼らを襲うのです。
私たちは、折れた骨を治療できるわけでも、採血できるわけでもないけれど、
手技療法の医療従事者として、痛みを和らげ、自律神経を整えることができるプロ。
日頃の予防医学が、有事の際の健康リスクを軽減するのではないか。
かける言葉が見つからないとき、そっと手を触れて応援できるのではないか。
そう思うと、素晴らしい職業に巡り合えたと思っています。
振り返ってみると、
建設業界にいた頃の自分にも、
あマ指師を目指している今の自分にも、
共通して、「防災」という視点が根付いているなと思いました。
形は変わっても、
人の生活と命を守りたいという思いは変わっていません。
これからも人は災害とともに生きていきます。
だからこそ私は、
自分の手で誰かの身体を支えることを通して、
人の暮らしと健康に向き合っていきたいと思っています。
あの日あけたピアスの穴。
そこまでエピソードにしなくてもいいようなことだけど、
言葉や理論の前に、感情で行動を起こした印象的な思い出です。
感情が、その後の自分のアイデンティティを作っていくのだなぁと。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

コメント